EVC(Economic Value to Customer)の式は、一行で書けます。参照価値に正の差分を足し、負の差分と切替負担を引く。それだけです。
それなのに、この式を使って売り手が計算したEVCの数字を商談に出すと、顧客に信じてもらえないことがよくあります。式は単純なのに、数字は信じられない。なぜこの断絶が起きるのか、というのがこの記事で答えたい問いです。
理由は式の複雑さではなく、置き方にあります。ひとつは、参照価値(顧客が実際に比べている次善の選択肢の価値)を、売り手が勝手に指定してしまうこと。もうひとつは、正の差分だけを積み上げ、負の差分と切替負担を表から落としてしまうこと。この2つの置き方が、EVCという道具そのものへの信頼を壊します。
私はEVCを、「価格を高く見せる根拠づくり」の道具としては使いません。負の差分と切替負担を、正の差分と同じ表に載せることを自分に強制する道具として使います。
正の差分だけを積み上げるEVC表は、項目を並べるほど数字が大きくなり、営業資料としては強く見えます。しかし顧客の実感とは一致しません。私が信頼できると考えるEVC表はその逆で、正の差分の大きさではなく、負の差分をどれだけ正直に書けているかで説得力が決まります。ここから先、正の差分だけを足す組み立てを「積み上げのEVC」、負の差分と切替負担を引き切ってから顧客に残る価値を決める組み立てを「差し引きのEVC」と呼び分けます。
ただし、この立場には境界があります。BtoBで、切り替え負担が重く、意思決定者が少数に絞られる提案に限った話です。マス消費財や、意思決定者が本人だけで完結する領域では、この記事の立場をそのまま持ち込まないでください。この境界は、WTPの記事で置いた境界と同じです。
この記事を今書く理由も、ここに置いておきます。バリューベース入門の記事では、コストベースが下限を、バリューベースが上限を決めるという2本の線を引きました。WTPの記事では、その上限側について、表明された調査値ではなく、見積の攻防に残る実現WTPで受け止め方を読むべきだという立場を置きました。ここまでの2本は、いずれも上限を「顧客がどう受け止めるか」から読む話です。まだ書いていないのは、上限を「顧客が何と比べているか」から組み立てる話だと考えています。EVCは、WTPが読む受け止め方の裏側にある、代替案との差分を分解する道具です。上限側の受け止め方をすでに書いたので、次は上限側の分解を書く番だ、というのがこの記事の位置づけです。
議論の前に、3つの言葉を定義します。この定義があいまいなまま「EVC」を使うと、売り手が置いた仮の数字と、顧客が実際に納得できる数字を同じものとして扱ってしまうからです。
参照価値とは、顧客が実際に比べている次善の選択肢の価値です。ここで一番大事なのは、参照価値は売り手が指定できるものではない、ということです。参照価値を決めるのは顧客の頭の中であって、営業資料の書き手ではありません。直接競合の価格だけでなく、手作業、外注、既存システムの維持、あるいは何も変えないという現状維持も参照先になります。自社が競合だと思っている相手と、顧客が実際に比べている相手がずれていれば、この先の差分価値もまとめて過大に見えます。
差分価値とは、自社案が参照価値よりどれだけ良いか、悪いかの差です。良くなる分は正の差分、増える負担は負の差分として、最初から同じ表に置きます。
切替負担とは、参照価値から自社案へ移るときにだけ発生するコストです。移行作業、教育、契約の重複期間などがここに入ります。差分価値と切替負担を分けておくのは、切替負担が自社案の欠点ではなく、乗り換えという行為そのものに伴うコストだからです。
3つを定義すると、EVCは次のように置けます。
EVC(差し引きのEVC)=参照価値+正の差分価値-負の差分価値-切替負担
積み上げのEVCは、この式から負の差分価値と切替負担を省いたものです。式としては短くなりますが、商談で信じてもらえる数字にはなりません。
参照価値がずれる一番大きな理由は、契約書や公開価格だけを見て、実際の運用に張り付いた時間や社内負担を見落とすことです。手作業も外注も、見える金額より、見えない待ち時間や確認・やり直しの手間の方が参照価値を左右します。
| 分類 | 項目 | 見るところ |
|---|---|---|
| 参照価値 | 既存ツール | 契約単位、利用範囲、更新条件 |
| 参照価値 | 手作業 | 作業時間、確認者、やり直しの頻度 |
| 参照価値 | 外注 | 委託範囲、納期、追加作業 |
| 参照価値 | 既存プロセス | 承認、入力、照合、報告の流れ |
| 正の差分 | コスト削減 | 外注費、作業費、保守費、再作業費の減少 |
| 正の差分 | 時間短縮 | 削減時間に、担当者や承認者の単価を掛ける |
| 正の差分 | 品質の安定 | 不具合、差し戻し、やり直しの減少 |
| 正の差分 | 機会の拡大 | 追加で扱える案件数や処理件数 |
| 正の差分 | リスク低減 | 発生頻度と影響額を分けて置く |
| 負の差分 | 移行作業 | データ移行、権限整理、既存運用の棚卸し |
| 負の差分 | 教育 | 利用者への説明、管理者の習熟、社内展開 |
| 負の差分 | 定着 | 一時的な生産性低下、並行運用、例外処理 |
| 負の差分 | 契約整理 | 既存契約の残期間、解約条件、重複契約 |
負の差分の4項目を空欄のまま商談に出すと、それは積み上げのEVCです。埋めてから出すと、差し引きのEVCになります。
最初にすることは、精密な計算ではありません。顧客が何と比べているかの仮説を、簡単な表にすることです。直接競合だけでなく、既存運用、手作業、外注、社内開発が代替案になっていないかを確認します。あわせて、今の選択肢を選び続けている理由、契約単位や更新タイミング、移行しにくい理由も仮説に含めます。
ここで価格を先に決めないでください。価格を先に決めてから表を埋めると、都合の良い数字合わせになりがちです。参照価値、差分価値、切替負担を先に仮の形で埋め、その後に価格案へ落とします。
EVCは社内だけで作って終わりにしません。商談で、顧客の作業ログ、見積や請求の履歴、導入前後の処理時間、差し戻し件数といった材料を確認し、過大な仮説は落とします。良い点だけでなく、移行作業や教育など増える負担も、顧客と一緒に同じ表で直します。この工程を挟むと、価格交渉が値引き中心になりにくくなります。
すべての項目を金額に直す必要はありません。提案書では、実測できた項目、顧客から聞いた項目、仮置きの項目を分けます。根拠の強さを分けるだけで、数字全体の信頼感が上がります。
価格案に落とすときは、差し引き後に残った金額をそのまま提示価格にしません。顧客側にどれだけ価値を残すか、初期費用と継続費用をどう分けるか、導入支援を価格に含めるかを、案件ごとに見ます。「差分価値の何割を取る」と固定すると、案件ごとの導入負担や競争環境を見落とします。
値引き要求が出たら、価格だけでなく価値差分のどこに不確実さがあるかを確認します。移行負担が重いなら導入支援を変え、効果の確信が弱いなら対象部門を絞るなど、値引きではなく契約期間や対象範囲の調整で応じる余地を探します。表に戻れば、どの負担を減らせばよいかが見えます。
営業支援ツールの仮想シナリオで流れを見ます。ここでは数値は使いません。数値を入れた実例は、実際の商談データか、出典のある教材例のどちらかでなければ意味がないと考えているからです。
出典のある教材例をひとつ挟みます。参考リソースに挙げたMIT OpenCourseWare「15.818 Pricing」(Spring 2010, Lecture 2)に、Atlantic Computer社の例があります。同社は、競合の2台のサーバーと同じ容量を1台でまかなえるソフトウェアを開発しました。競合サーバー2台の価格、つまり参照価値は6,800ドルです。1台に集約することで浮く人件費4,000ドル、電気代500ドル、ソフトウェアライセンス1,500ドルを足すと、差分価値は6,000ドルになります。参照価値と差分価値を足したEVCの理論上限は12,800ドルです。ただし同教材は、この上限をそのまま提示価格にはしていません。差分価値の半分を顧客側に残す「50%ディスカウント・ルール」を適用し、実際の提示価格は9,800ドルに置いています。上限を計算することと、上限をそのまま出すことは別の作業だ、というのがこの例の要点です。
同じ教材は、参照価値の指定を誤った例も挙げています。あるウェブバックアップ企業は、EVCで計算した価格が自社の現行価格の2倍になると試算しましたが、競合各社がリスト価格から80%値引きして販売している実態を参照価値に反映していませんでした。参照価値を売り手の想定で固定すると、差分価値ごと机上の空論になります。これは、この記事の第3節で置いた「参照価値は売り手が指定できるものではない」という論点と同じ壊れ方です。
ここから先の私たちの仮想シナリオでは、この教材例と同じ骨格だけを借り、具体的な金額は置きません。前提として、ある企業が既存ツールと手作業で商談記録を管理しているとします。新しいツールを入れると、入力、確認、レポート作成の一部が短くなります。一方で、初期設定と利用者教育が必要になります。
| 分類 | 置き方 |
|---|---|
| 参照価値 | 既存ツール費と手作業の負担 |
| 正の差分価値 | 入力時間の短縮、確認漏れの減少 |
| 負の差分価値 | 移行作業、教育、並行運用 |
| 切替負担 | 既存契約の残期間、承認作業 |
差し引きのEVCは、この4行を足し引きした後に残る金額です。この結果をそのまま価格にするのではなく、顧客に残す価値、導入支援の範囲、契約期間、支払いタイミングを合わせて価格案に落とします。
正の差分は、金額に置きやすい順ではなく、過大評価が起きやすい順に並べ直すと、扱い方が変わります。
柔軟性が最も過大評価されやすい項目です。将来の拡張、他部門展開、プラン変更、連携追加のしやすさは、まだ使っていない可能性への支払いだからです。根拠が弱いまま金額化すると、顧客にとって最も納得しにくい行になります。金額に入れず、提案の強みとして補足に残す方が安全です。
処理能力の拡大も同じ理由で過大に振れます。同じ人数で扱える案件数や処理件数が増えるという主張は、需要側の制約や営業体制が伴って初めて実現します。処理能力だけを積み上げても、案件そのものが増えなければ絵に描いた餅です。
リスク低減は、発生頻度と影響額を分けて置けるかどうかで信頼度が変わります。停止、誤請求、確認漏れ、契約違反などのリスクは、発生確率を強く言い切れない場合、定性的な安心材料として残す方が扱いやすくなります。
品質の安定は、差し戻しや入力ミスの減少という形で置けますが、発生頻度が低い項目は金額に入れず補足として扱う方が適切な場合があります。
時間短縮は、担当者の単価だけでなく、承認者や顧客側の待ち時間にも影響します。どの人の何分が減るのかを分けると、過大評価を避けられます。
コスト削減は、外注費や手作業、保守、確認作業が減る場合、6項目の中では最も検証しやすい項目です。ただし、削減できる時間がそのまま費用削減になるとは限りません。空いた時間を何に使うかは、顧客に確認しないとわかりません。
この並びに、2つの落とし穴を重ねておきます。ひとつは、顧客規模、利用場面、導入体制が違う相手を平均でまとめてしまうことです。少なくとも、利用頻度、部門、契約条件で分けて見てください。もうひとつは、ブランドや安心感のように根拠が弱い価値まで、上の6項目と同じ表で金額化してしまうことです。根拠が弱いものは、本文補足として扱います。
WTPの記事では、表明WTPより実現WTP(見積の攻防で締め直した値)を信じる、という境界付きの立場を置きました。境界はBtoBで、切替負担が重く、意思決定者が少数の提案に限る、という今回と同じ境界です。EVCとWTPは、片方が正しく片方が間違っているという関係ではありません。EVCは売り手側から代替案の差分を組み立てる根拠、WTPは買い手側の受け止め方を読む材料です。組み立てた根拠と、読んだ受け止め方を突き合わせて、価格帯のどこに置くかを決めます。
PSMは、価格帯の受け止め方を質問で把握するアプローチで、競合や代替案との価値差を直接組み立てるものではありません。参照先がまだ曖昧な段階ではPSMの方が動きやすく、代替案が見えてきた段階でEVCに切り替えます。
コンジョイントは、機能、支援範囲、契約条件、価格の組み合わせを見たいときに向きます。EVCは、個別提案の価値差分を説明するときに向きます。プラン設計はコンジョイント、個別商談はEVC、という役割分担です。
ここまでの整理から、私が運用で変えているのは1点だけです。EVC表を作るとき、正の差分の行からではなく、負の差分の行から書き始めます。
理由は単純です。負の差分と切替負担を先に埋めてしまえば、後から都合よく削れなくなります。積み上げのEVCが起きるのは、正の差分を先に並べ、負の差分を「後で足せばいい補足」として扱うからです。差し引きのEVCは、その順番を逆にするだけの話です。
既存顧客の値上げにも、この順番はそのまま使えます。新規導入時と違うのは、参照価値が「代替案」ではなく「今の契約」に変わる点です。参照価値が変わるので、差分価値の中身も、導入負担ではなく、契約更新、利用実績の蓄積、サポート範囲、社内説明のしやすさに置き換わります。新規導入時のEVC表をそのまま流用せず、更新時に増える負担をあらためて負の差分の行に書き直してください。
この記事は、ネクサフローで進めているプライシング研究の続きとして書きました。EVCの数字そのものは、命令ではなく判断材料です。負の差分の行から書いた表を、次の商談に持ち込んでもらえれば、この記事の役目は終わりです。