同じキャラクターIPでも、コストアプローチで測れば開発費の10億円が評価額の起点になり、インカムアプローチで測れば数億円にも数十億円にもなります。人気が続けば価値は10倍にも、続かなければほぼゼロにもなる。同じIPなのに、どの手法を使うかで評価額が桁違いに動くのはなぜでしょうか。
このIPライセンスプライシングシリーズでは、これまで権利範囲と運用条件が実質負担を決めること(IPライセンスプライシング入門)、料率交渉ではなくブランドの基準点を誰が握るかが価格を決めること(ポケモン・ディズニー・任天堂の戦略)を書いてきました。この2本を書きながら気づいたのは、IPの評価額を尋ねられるとき、質問の形はいつも「いくらですか」なのに、答えるべきは「どの前提で計算しますか」だということです。評価額そのものは、交渉の答えになりません。この記事では、なぜそう言えるのかを整理します。
ロイヤリティ条件の設計パターンを書いたときも、同じ構造に行き当たりました。固定額・実績連動・最低保証をどう組み合わせるかを整理する記事のはずが、実際に先に固定すべきだったのは料率そのものではなく、算定ベースや精算タイミングという前提の置き方でした(ロイヤリティ条件の設計パターン)。入門記事・事例編・この記事の3本を並べると、質問はいつも「率」や「額」という数字の形をしているのに、答えるべきはいつも前提の置き方だったとわかります。IPに関する価格の問いはすべて「前提をどう置くか」の言い換えだと、私は考えています。
先に、この記事が依拠する考え方を定義しておきます。
評価額=前提の束(assumption set)の関数とは、IP評価額がそのIPについての客観的な「事実」ではなく、成長率、想定ロイヤリティ率、割引率、シナジー範囲という前提をどう置くかによって決まる出力である、という捉え方です。同じIP、同じ手法でも、前提の置き方を変えれば評価額は数倍動きます。したがって「このIPの評価額はいくらか」という問いは、実は「どの前提を採用するか」という問いの言い換えにすぎません。
コスト・マーケット・インカムという3つのアプローチは、優劣のある3つの「正しさ」ではなく、どの前提を土台に置くかの違いです。次の節で、その違いを1つの軸に並べ直します。
IP(知的財産)の価値評価には、コスト・マーケット・インカムという3つのアプローチがあります。違いは優劣ではなく、どの前提を評価の土台に置くかです。
| アプローチ | 土台に置く前提 | 効きやすい局面 |
|---|---|---|
| コスト | 再作成・置換にかかった費用 | 開発初期、収益実績がまだ無いIP |
| マーケット | 類似IPの取引事例 | 参照できる取引データがある場合 |
| インカム | 将来キャッシュフローと割引率 | 確立され、収益実績のあるIP |
コストアプローチは、IPを作り直すのにかかる費用を起点にします。たとえば、あるゲームキャラクターの開発に3年・10億円を投じたとすれば、コストアプローチでの評価は10億円が起点です。ただし人気が出れば価値は10倍にもなりますし、人気が出なければほぼゼロにもなります。開発費という前提は、IPが実際に生む収益とはほとんど関係がありません。開発初期で収益実績がまだ無いIPには使いやすい一方、確立したIPの交渉に持ち込む数字としては弱いといえそうです。
マーケットアプローチは、類似IPの取引事例を前提に置きます。同規模・同ジャンルのキャラクターIPが過去にいくらで取引されたか、という前提です。参照できる事例があれば説得力を持ちますが、IPはひとつひとつ固有のため、完全に同一視できる取引を見つけるのは難しく、そもそも参照データを入手できない場合も多いといえます。
インカムアプローチは、IPが将来生み出すキャッシュフローを割り引いて評価します。確立されたIPでは、このアプローチを軸にほかの見方と突き合わせる進め方がよく採られます。前提として置くのは、将来の売上見込み、想定ロイヤリティ率、割引率です。この3つの前提をどう置くかで、評価額は大きく動きます。インカムアプローチには、ロイヤリティ免除法のほかDCF法や収益分割法もありますが、実務で最もよく使われるロイヤリティ免除法を、この先は軸に見ていきます。
ここからは私の立場です。私はこれを「アンカー」と「反証カード」という役割で区別します。アンカーとは、交渉の出発点として自分から土俵に上げる評価手法のことです。反証カードとは、相手が出してきたアンカーの前提を崩すためだけに使う、控えの評価手法のことです。3手法を優劣で並べるのではなく、この2つの役割のどちらに割り当てるかで考えます。
私は、確立した収益実績のあるIPを交渉に持ち込むなら、アンカーはインカムアプローチ——なかでもロイヤリティ免除法——一本に絞るべきだと考えています。コストアプローチとマーケットアプローチは反証カードとして手元に置くだけで、自分からアンカーには使いません。
3つの手法を並べて「総合的に判断しましょう」と言うのは、一見公平に見えて、実は前提の奪い合いを先送りしているだけです。土俵をひとつに決めなければ、相手はいつでも自分に都合のいい手法に乗り換えられます。逆に、先にインカムアプローチで合意してしまえば、相手が動かせる変数は成長率・料率・割引率という限られた前提だけになります。
ただし、この立場には境界があります。これは対等から買い手がやや優位程度の交渉で、確立したIP、つまりすでに収益実績があるIPを扱う場合の順序です。実績のない初期IPや、相手が独占的にIPを保有していて代替の効かない場合は、この順序は崩れます。そこは別の記事の領分だと切っておきます。
ロイヤリティ免除法は、「このIPを持っていなければ、他社にロイヤリティを支払っていたはずだ」という考え方に立つ手法です。
IP価値 = Σ(見込み売上 × 想定ロイヤリティ率)÷(1 + 割引率)^年
単純化した数値で考え方を示すと、5年累計の見込み売上を100億ドル、想定ロイヤリティ率を5%とすれば、割り引く前の価値は5億ドルです。ここに10%の割引率をかけると、割引後の価値は4億ドル弱まで下がります。
この式が示しているのは、評価額そのものより、評価額を動かす前提がどこにあるかです。割引率を10%から12%に、想定ロイヤリティ率を5%から4%に動かすだけで、算出される額は数千万ドル単位でぶれます。相手が提示する評価額に反論するとき、見るべきはこの3つの前提——見込み売上、想定ロイヤリティ率、割引率——のどれが、どの根拠で置かれているかです。前提そのものより、前提の妥当性を握った側が、交渉の土俵を握ります。
具体的に数字を動かしてみます。先の試算は、5年累計の見込み売上100億ドルに対する年間ロイヤリティ収入を均等に按分すると、1年あたり1億ドルになります。これを割引率10%で5年分現在価値に割り引くと約3.8億ドルとなり、記事の「4億ドル弱」という数字はこの計算に基づきます。ここで割引率だけを12%に動かすと現在価値は約3.6億ドルに下がります。逆に想定ロイヤリティ率だけを5%から4%に下げると、年間の受取額が0.8億ドルになり、現在価値は約3.0億ドルまで下がります。両方を同時に動かせば約2.9億ドルです。前提を1つ動かしただけで、現在価値は数千万ドルから1億ドル近く動く計算になります。相手が提示してきた評価額に対して有効な反論は、額そのものへの異議ではなく、算出根拠にある割引率とロイヤリティ率のどちらが、どんな理由でその水準に置かれているかを問うことです。
Interbrand や Brand Finance のようなブランドコンサルティング会社が毎年公表するランキングも、前提の束のひとつです。Interbrand は財務分析・ブランドの役割・ブランド強度という3要素で評価し、Brand Finance はロイヤリティ免除法をベースに、想定ロイヤリティ・売上見込み・ブランド強度指数をかけ合わせて算出しています。ブランド評価の国際規格である ISO 10668 は、透明性・妥当性・信頼性・十分性・客観性・財務行動法的パラメータという6要件を定めていますが、これは「正しい評価額を一つに定める規格」ではなく、「前提の置き方を検証可能にする規格」です。
ここから言えるのは、第三者評価のランキング順位そのものは交渉のアンカーにならない、ということです。ランキングは毎年更新されますし、算出に使われた前提——どの事業をブランドの貢献分に含めたか、どの割引率を採ったか——は公表資料をたどらないとわかりません。交渉材料として使うなら、順位よりも methodology と前提条件を確認するほうが安全だといえそうです。第三者評価は自社の試算を補強する証拠にはなりますが、反証カードとしても、前提の中身を確認して初めて使えます。
前提を広げることで評価額そのものを正当化した例として、ディズニーによるMarvel Entertainment買収(2009年、取引価値約40億ドル)があります。買収発表時のプレスリリースで、当時CEOのロバート・アイガーは次のようにコメントしています。
"We believe that adding Marvel to Disney's unique portfolio of brands provides significant opportunities for long-term growth and value creation."
—The Walt Disney Company to Acquire Marvel Entertainment, Inc.(2009年)
このコメントが示しているのは、ディズニーが評価の前提を単体作品の興行収入ではなく「既存ポートフォリオに加えることで生まれる長期的な成長機会」にまで広げている、ということです。マーベル単体の映画興行収入というインカムアプローチの狭い前提だけでは、40億ドルという価格は説明がつきません。しかし前提を「ディズニーの既存ブランド群全体でどれだけ長期成長に寄与するか」にまで広げれば、同じインカムアプローチのままで評価額の桁を引き上げる根拠になります。手法を変えたのではなく、シナジー範囲という前提を広げて価格を正当化した、というのがこの例の読み方です。
同じ時期に公表された買収額で見ると、Pixar買収(2006年、約74億ドル)、Lucasfilm買収(2012年、約40.5億ドル)も含めて、3社がそれぞれどんな基準点の設計につながったかは、ポケモン・ディズニー・任天堂の戦略 で比較しています。この記事で見るべきは個社の戦略比較ではなく、シナジー範囲という前提の広げ方そのものが評価額を動かす一つのレバーだという点です。
ここまでの整理を、実際の交渉での手順に落とします。
評価手法をどれにするか、数字の話に入る前に合意します。相手が「総合的に判断しましょう」と3手法を並べてきたら、それ自体が前提を先送りする合図です。確立したIPであれば、インカムアプローチ、なかでもロイヤリティ免除法に絞る提案をします。
前提を1つずつ動かした感度を、自分で先に出しておきます。割引率や成長率をどちらに何ポイント動かすと評価額がどう変わるかを相手より先に把握しておけば、相手が有利な前提を持ち出してきたときに、その前提がどれだけ評価額を動かしているかをすぐ言い返せます。
第三者評価は反証カードとして使い、アンカーそのものには使いません。Interbrand や Brand Finance のランキングを持ち出されたら、順位ではなく methodology と前提条件を確認します。相手の前提が自社の交渉ポジションに合わないなら、それを理由に別の前提へアンカーを戻します。
この順序を私が推すのは、単発の思いつきではありません。IPライセンス入門で率の相場を先に集めるべきではないと書いたのも(IPライセンスプライシング入門)、ロイヤリティ条件の設計パターンで算定ベースを料率より先に固定すべきと書いたのも(ロイヤリティ条件の設計パターン)、根はここまでの「評価手法を先に合意する」という主張と同じ構造だと考えています。数字の話に入る前に土俵を固定するという順序を、このシリーズを通じて崩していません。評価手法についても、この順序を先に握った側が交渉で優位に立つと私は見ています。
3つの評価アプローチを並べ直すと、見えてくるのは手法の優劣ではなく、誰が前提を握っているかです。コストアプローチは開発側が握る前提(かかった費用)に立ち、マーケットアプローチは市場側が握る前提(類似取引)に立ち、インカムアプローチは将来を見積もる側が握る前提(成長率・料率・割引率)に立ちます。交渉で強いのは、最も「正しい」手法を使う側ではなく、採用した前提の妥当性を最後まで説明できる側です。
評価額という数字は、交渉の答えではありません。前提を交渉するための材料です。私は、この記事で示した「インカムアプローチをアンカーに、コスト・マーケットを反証カードに」という順序が、確立したIPを対等な立場で交渉する場面では機能すると考えています。ロイヤリティ免除法で握った前提は、そこで終わりではありません。算定ベース、報告体制、最低保証といった契約条件に落とし込んで初めて、実務上の価格になります。その落とし込み方は、ロイヤリティ条件の設計パターン に委ねます。
IPライセンスプライシング シリーズ
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